@article{oai:lib.cku.repo.nii.ac.jp:00001391, author = {加藤, 修一 and Kato, Shuichi}, issue = {58}, journal = {千葉経済論叢, CHIBA KEIZAI RONSO}, month = {Jun}, note = {哲学は数学と違って一意に決まらない。数学では、AであればBだけが成り立ち、BであればCしか導き出せないという論理は、論理の展開に選択の余地がなく、必然的かつ論理的に証明可能となる。ところが哲学史をみると哲学は様々な分野があり、これを代表する哲学者の専門とする立場もそれぞれ異なる。自分の立場を擁護する人もあれば、世の中の矛盾を指摘して世界を変えたい、あるいは極めて個人的な心情を説明したいという理由から哲学を始めている傾向が読み取れる。その立場に立つと理解できるが、単に論理的真偽だけで判断すると哲学者の意図を見逃すことになる。様々な哲学があるということは哲学者の立場が多様であることを表している。どの哲学が正しくて他は間違いとはいえない。認 識が甘いとか、論理の立て方がおかしいなどの指摘はできる。また、哲学者の立場も時代性があり普遍ではなく時々刻々と変わる。いわば動いている電車の窓から見える風景を論じているようなものである。窓ごとに見る人の情報をまとめてから風景を論じると風景の全体像の理解に近づく。しかし、これから風景を創るもの、しくみを理解することはできない。人の表情から人間の本質である人間存在の意味を理解することはできない。表情は人間の一表現形式に過ぎない。なぜそのような表情をとる必要があるのかについて推論を進めるだけである。表現は文芸、芸術、科学、思想、宗教などあらゆる手段、領域に及ぶ。人間のあらゆる活動は自己表現の形式である。マルクスの資本論は資本の独占階級が社会的影響を与えていた時代を背景にしている。資本が一般人に行き渡り階級が限定できなくなると唯物史観も揺らぎ始める。しかし、条件を特定する限りにおいて資本家の考え方や行動を探ることはできる。この意味において人間の一面的な理解は可能である。ところで、生命誕生の時から世代を変え、種を変え、進化を推し進め、46億年の時を経過して人間の誕生となり現在を迎えている。生物の目的は生き続けることであるが、生物の頂点となるはずの存在でも、生きる意味を問うこともなく自他の短い命を、かけがえのない自然遺産を無駄に消費している。舵取る人類丸は徒に時空の海を漂流し続けている。産みの母たる自然を破壊して快適な生き方を求めることは、いわば売血で命をつなぐ行為に似て、自滅への道である。地球温暖化が進み、絶滅危惧種が増えるたび自然環境保護の必要性が説かれているが、温暖化や絶滅危惧種を守るだけが自然環境保護ではない。地球上で起こる個々の現象を危惧して対応するようでは自然環境保護対策として有効ではない。個々の環境異変現象は互いに関連しているため今後も様々な環境破壊が予想される。自然環境とは何か、そもそも自然とは何かが曖昧な理解のままでは何をどのように保護するのか具体的にはよくわからない。これを明らかにするために生物の大半を占める微生物の棲息する土壌環境調査を進めて自然及び自然環境の意味を探る研究を続けている。20億年の時を過ごしてきた粘菌の生き方から自然と、自然環境への適応を学ぶことができる。}, pages = {97--114}, title = {Physarum polycepharumの観察から得られる自然環境の意味}, year = {2018}, yomi = {カトウ, シュウイチ} }